ひところよく読まれたが最近はとんとその名を聞かない、という事は栄枯盛衰は人の世の常。
本の世界では当たり前のことです。
亀井勝一郎。
懐かしい名前です。
私の青少年時代は、岩波を除くほとんどの文庫に作品が収録されていたと思います。
「大和古寺風物誌」、「愛の無常について」、「人生論」や「読書論」などetc。
とにかく大量に出ていて、青春時代の必読書の観を呈していました。
私も「愛の無常について」を読んでひどく感動した記憶があります。
取り上げる主題は深淵でも文体は優しく、いつしかゆりかごで揺られているような不思議な気持ちにさせられました。
少し甘く少し悲壮な慨嘆調で、知らぬ間に引き込まれたものです。
著者の風貌はと、口絵の肖像写真を見ればこれがまた、池部良にちょっと似た端正な顔に綺麗で豊かな若白髪。彼の講演会は例外なく満杯になり、良家の子女が揃ってうっとりと顔を眺めていたと伝えられています。
それが今は語る人も無く、文庫本には収録されておらず、ほとんど忘れ去られています。
ところがこの人、風貌や青少年向きの本から受ける印象とは異なり、実はかなり激しい性格の持ち主だったようで、彼の全集にはその一面が現れた文章も収録されていて面白い。
「私の大きらひな文化人」と題された、昭和26年の文芸春秋に発表された文章が講談社版全集の第15巻におさめられています。
そこで彼は渡辺一夫、桑原武夫、羽仁五郎の3人の実名を挙げて口汚くののしっているのです。
一口で言えば、やたら外国崇拝をして日本人を貶めて眺めては悦に入っている鼻持ちならない連中、と決めつけています。
その論の当否はここでは問いませんが、今では書けないような名誉棄損すれすれの言葉でもって容赦なく攻撃する様は、亀井勝一郎が持っていた一般的イメージとはあまりにかけ離れているので、とても興味深いです。
読みたい方は古書店で亀井勝一郎全集をお買いください。